怒りという感情に関する考察
前回の記事で「迷路の外にはなにがある?」という本の書評をあげました。
この中で登場した2匹と2人のネズミと小人はたどり着くまでのスピードは違えど物語の最後にはきちんと自分自身を変えて最終的に理想となるチーズにたどり着いています。
重要なポイントとなったのは困難な状況に直面した時に訪れる呆然とするような無気力感とそのあとに訪れる一体なにが悪いのかという自分以外の何かに感する怒りの感情です。
自分に対する自己嫌悪による怒りもあるのかもしれません。
どうして自分はこんなにダメなんだろうとか、どうしてこんなにできないんだろうという感情も、感じ方によっては無気力に。感じ方によってはいかりとも取れるような感情の動きです。
実際のところ僕自身もこのような感情の動きはこれまでで何度も経験があり、その度に落ち込んだ状態になったり、なにが悪いんだと怒りの感情に苛まれたり、時にはあいつが、環境がわるいとしたこともありました。
実際今でも何かに対する怒りの感情というのは結構湧くことがあります。
残念ながらいまだにそう行った面で精神的に未熟なので、少しずつ書き出しながらそう行った感情に対する制御の仕方というのを自戒を含めて書いてみたいと思います。
そもそも、怒りという感情がなぜ発生するのかといえば、今までも書いてきた通り、反応によって発生します。
反応というのは人が何かの状況に対してどう対処するかという結果によって発生します。
なにも考えてないけど、いきなり怒りを覚えたという人でも怒りを覚えたことには原因があり、そこには何かの情景が浮かんでいるわけです
要するに自分には許せない何かがそこにあるわけです。
怒りが発生しやすい状況としては人からいやなことを言われたとか、自分の望まない状況にされた時などが該当し、そこが発生しやすい箇所だといえます。
無気力には怒りには必ず現時点で自分の力ではどうしようもない状況になってしまったという共通点が存在します。
実際のところ自分の力の範囲で軽くできる自称であれば、さほどいやな気分にはならないからです。
要するにこれらの感情が渦巻いている現状こそが自分自身ができないことをやらないといけない状況にいるという証明になっているわけです。
そのためになんとかしてその状況を回避したいと考えているわけです。
そしてそれを乗り越えたときにどうにかしないとならないという感情にかられ、何かを越えようとして超えたときに人は成長するということになります。
ここから得られる考え方としては、人が成長するためには大抵の場合は辛さを味わうということです。
無気力も怒りも当人にとってはエネルギーの保持量が極端に低い状態か、エネルギーの消費が極端に多い状態かのどっちかです。
どちらも生活をする上ではしんどい状況です。
そんなときに自分が今乗り越えなければならないことは何かということを考えます。
自分自身がそれを感じている間はもはやどうしようもない状況のときもありますが、
数年前とかでやる気がなかった自分を、怒っていた自分を思い出すことってできるでしょうか?
少なからず自分にはできません。
なんとなく何かに怒って、何かに無気力になってしんどかったなという気はするのですが、さほど思い出すことができません。
つまりはその程度だってことなのです。
一時的にはきつい状況ですが、その状況が終わればまた基本ニュートラルに戻るということなのです。
ということはです。
つまり抜け方があるということなのです。
世の中に一度も怒ったことがない、一度も無気力になったことがないという人は極めて極小でしょう。
人間関係がそれなりにあるという状況でがどちらもよくある状況です。
一番簡単なのはそれを引き起こしている原因が終わるということです。
それが解決なのか、逃亡なのかは置いておき、その状況が終わったという状況では、基本的に人はニュートラルに戻ることができます。
状況が続く間はしんどい状況が続きます。ならば、なにをすれば終わるのかということを考えた方が得策なわけです。
当然その状況を変えるのが困難なケースがあります。
だとすれば、どうすればその状況を無視できるようになるかという考え方も一つかもしれません。
なにはともあれ基本的にこの人が成長する直前で訪れるこの無気力や怒りという感情はそれ自体が合図だということも忘れないでください。
無気力でしんどい。怒りすぎて辛い。そのどちらも疲れる状況ではありますが、
そんな時こそ紳士にどうやってこの状況から抜け出すかを考える時だと思ってます。
難しいんですけどね。
少しずつでも自分の中の無気力や怒りをコントロールして、本当にじぶんが目指す理想に近づいていきたいものです。
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