立ち止まってしまった人へ、迷路を抜け出すにはどうすればいいのか? スペンサー・ジョンソンさんの「迷路の外にはなにがある?」を読みました
以前、スペンサー・ジョンソンさんの前作、「チーズはどこへ消えた?」の書評をあげました。
あのストーリーに登場した2匹のネズミと2人の小人。
彼らがどうなったのか覚えているでしょうか?
登場したのはネズミである「スニッフ」と「スカリー」。
そして小人である、「ヘム」と「ホー」。
あの物語は最初彼ら自身の好みのチーズを探して迷路をさまよっているところから始まりました。
そしてやがて彼らは自分たちの好みのチーズを見つけ、場所を落ち着けました。
刻々と変化していた状況に対して常に敏感になり探し続けていた「スニッフ」と「スカリー」。
場所を落ち着けてからは探索をやめた「ヘム」と「ホー」。
そしてやがてその変化はある日突然チーズが消えたことにより起こりました。
常に探索を続けていた2匹はすぐさまその変化に対応し、新たなチーズを探しに再び迷路へと潜って行きました。
そして、探索をやめてしまった2人の小人はその状況に対して呆然としていました。
そしてその場から動かず、どうしてそうなってしまったのかを考え始めました。
いつかチーズがある日戻ってくることを祈りながら。
しかし、その日はいつになっても訪れませんでした。
やがて空腹とストレスで疲弊していく2人。そんな時にこの2人に道が分かれる時がきます。
「ホー」はとうとうこのままじゃダメだと立ち上がり、フラフラな体ながら、新たにランニングシューズをはき、いつかの2匹のように迷路を探索し始めました。
そしてやがて理想となるチーズを見つけるのです。
一方「ホー」はその状態になってもまだ残りました。
出ていったヘムが彼を連れ出そうとしましたが、「ホー」はヘムが持ってきたチーズを気に入りませんでした。
そして「ヘム」と「ホー」の道はわかたれました。
「チーズはどこへ消えた?」では人生と仕事における変化に適応する道を示していました。
しかしながら現実で置き換えてみると、大半の人はヘムのようにかつての栄光を求め、慣れ親しんだ場所から離れられないのではないでしょうか?
本作はそんな「ヘム」に焦点を当てた話となっています。
あれから「ヘム」はどうなったのでしょうか?
その物語をおいながら、今の場所を抜けられない人はどうすればいいのか考えて見たいと思います。
この物語は自分を置いていった「ホー」への怒りの感情から始まります。
どうして「ホー」は戻ってこないのか?忘れてしまったのか?自分から逃げてるからか?わざとこんなことして戻ってこないんだと、とにかく怒りの感情が「ヘム」を支配します。
やがて考えに疲れた彼は考えることをやめて叫び出します。
「こんなのあんまりだ!」と。
そして、再び考えを始めます。しかし、少しずつ考え方が怒りから心配に変わって行きます。
「ホー」は道に迷ってないだろうか?ケガをしてないだろうか?など。
その考えはやがて、ホーが戻ってこない理由ではなく、自分がホーと一緒に行かなかった理由を考え始めます。
あの時一緒に行くという選択をしていればまた違った未来があったんじゃないかと。
それ以前にチーズが消えた時にそれと一緒に動いていればと。
ベイビーステップという漫画にもありましたが、大概困難な状況に直面した時に人はまず無気力(途方にくれた状態)となります。
そして次にその状況を引き起こした何かに対して怒りを覚えてます。
そして、怒りはやがてその状況を変えるために何かをしなければならないという重圧へと変わって行きます。
最後にやってやろうという挑戦する心が芽生えます。
このステップをいかに素早く乗りきり新たな挑戦に臨む状態へ持っていけるかが鍵だと思っています。
そう考えれば、「スニッフ」と「スカリー」はこのうちほとんど無気力と怒りがなく、ただちにやらなければならないという重圧を挑戦心へと変え新たなチーズを探しに出ています。
一方でホーは無気力な状態、呆然とした状態を経験したのちにこんなことがあるはずがないという怒りにかられ、彼らはなにが悪いのかを考え始めています。
そして、ここから「ホー」はやがて何かをやらなければならないという重圧をやってやろうという挑戦心に変えて再び探索へと乗り出しています。
一方でヘムは怒りの状態から立ち止まってしまいました。
怒りを重圧に変える方法をここから考察するのならば、考え方の視点を自分に向けるというのが重要だというように思えます。
要するに誰が、なにが悪いのかではなく、自分にはなにができたのかという視点を新たに発掘することです。
ただし、結構厳しい考え方です。何かが悪いと考えていた方が基本的には楽な考え方だからです。
これは怒りという形で誰かに矛先を向けている時間が長いほど自分に向けるのが困難になって行くと思っています。
そしてヘムもまたこの考え方を自分に向けて何かをしなければならないという重圧へと変えます。
新しいチーズを見つけなければならない。そうしなければ死ぬ。
迷路は危険で暗がりや袋小路がたくさんある
全ては自分次第。自分でなんとかしないとならない
これらのことを胸に最後の挑戦心へと変化して行きます。
やがてヘムもまた新たなチーズを探しに迷路へと戻っていくのです。
困難にあたり怒りを覚えているのであれば、少なからずその状態では変化も解決も難しいということです。
さもなければヘムのように問題が解決しないまま、誰かがいずれそれを解決してくれることを願いながら、その場から動けなくなるだけです。
ヘムは途中途中でホーの残した言葉を見つけます。
「従来通りの考え方をしていては新しいチーズは見つからない」
今までの状況から変わってしまった。新しいことをやらないとならない。
この状況でこれまでと同じことを繰り返しやっていても変わるわけがありません。
変えたいのなら考え方も行動も変えなくてはなりません。
そしてヘムはこの探索の途中で新しい小人に出会います。
名前をホープと言いました。
彼女はお腹をすかせているヘムに赤い小石のようなものを差し出しました。
しかし、ヘムはそれを見たことがありません。だから、それは食べらないよと差し出されたものの受け取りを拒否します。
理由はそれは自分の知っている、見慣れたチーズではないからです。
しかし、やがて空腹が限界に達した時にそれを食べてみます。
それはりんごでした。しかし、彼はりんごを知りませんでした。
自分の知ってるだけの固定概念に囚われていると本当なら自分を変えてくれるかもしれない、救ってくれるかもしれないものに出会ってもそれを拒否するかもしれません。
見極める力は必要でしょう。
問題なのは見極めることなく、それは自分の知らないことだからだと拒絶してしまうことです。
こうして新たな探索の先で新しいものへと出会います。
それを受け入れることも拒絶することも自分の自由です。
ヘムはホープと出会いました。
そして彼女からりんごを受け取り、また一つ知りました。
ヘムはこの探索の途中、探索のやり方について従来通りの考え方をしていました。
ホープの新しいやり方を試そうという言葉にも反発を繰り返していました。
そしてやがてなにが悪いのかから、自分にはなにができるのかと再び自分に矢印を剥けた時に気づきました。
なにが一体自分をあの場所に縛り付けていたのか。全ては自分の信念が引きおこしたことだと。
それはそのままその場を動かないでいれば事態は好転するのだという信念。
そして、やり方を変えずともやり続ければいつかはうまくいくだろうという信念。
しかし、それら古い信念は自分を囚人としていました。
だけど彼はチーズしか食べなかったところからりんごを知りました。
彼は確かに変わったのです。
ヘムは再び考え方を切り替えました。
しかし、すでに自分たちにできることはやってしまったような気がしていました。
そんなときにホープが呟きました。
「迷路の外にはなにがあるんだろう?」
彼らはずっと迷路の中を探してきました。だから最初はヘムも迷路の外なんかないよといいます。
しかし、それは彼がこの迷路の中しか知らないからこそ出てきた言葉です。
ヘムもホープも外にはなにがあるのか知りませんでした。
そして迷路の外には素晴らしいものがあるのかもしれないと未知に対して挑戦する心を手に入れます。
やがて彼らは古い考え方も古い荷物も全て捨てて探索へと乗り出します。
今まで避けていた袋小路になりそうなところや暗がりにもいくようになります。
やがて彼らは一つの光を見つけます。
そして彼らは。。。
この物語のラストでは彼らは迷路を抜け外に出られています。
そして先に行ったホーとヘムは再会を果たすのです。
この物語もたった100ページにも満たない長さのストーリーです。
しかし、これだけ書いてもまだ足りないくらい人生における迷いと立ち止まった状況に対してどうすればいいのかということが書いてあります。
自分たちは今困難のはてに立ち止まっているのでしょうか?
それとも探索をしている最中でしょうか?
迷路の外に出たあとなのでしょうか?
それを決めるのは自分自身です。
しかし、もしも今立ち止まり、困難に対して怒りや呆然とした状況があるのならば、このヘムのように古い荷物、古い信念を少しずつ変えながら、迷路の外に出るための冒険に出かけてみましょう!
『迷路の外には何がある?』 ――『チーズはどこへ消えた?』その後の物語
- 作者: スペンサー・ジョンソン,門田美鈴
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2019/02/27
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